"昔は良かった"の謎

先日、乗っていた電車で人身事故が起こり、1時間近く車内に閉じ込められてしまった。
地下鉄だったので、途中で車両の電源が落とされた時にはあたりが真っ暗になった。
サイレンが鳴り響き、顔を引きつらせた駅員が走り回るホームを暗い車内から茫然と眺めることになった。
初めてのことで、とても恐ろしかった。
1時間も閉じ込められたことによりその後の予定が狂ってしまったという憤慨もある。

というような話を80代の方にしたところ、「あれは迷惑だよねえ」と言った後、とんでもない話をし始めた。
「僕も中学生の時に地元の鉄道に乗っていて、その電車が人を轢いちゃったことがあってね。
電車が急に止まって、しばらくしたら運転手が轢かれた人をポーンと電車に放り込んで、それから走り出したの。」
えー!!!!!!!!!!!
今、文字で書いたのと全く同じ反応を実際にした。
信じられない。その人は生きていたのか死んでいたのか聞いてみたら
「いや、死んでるよ。真っ二つ」
とのことで、二回目のえー!!!!!!!!!!!が出た。
今度はちょっとのけぞった。老人、大笑いである。
たった今電車に轢かれて真っ二つになった人間を、乗客と一緒に乗せて走り出す電車。
現代ではあり得ない話だ。
「いや、すごいな…。おおらかな時代…ということなんでしょうかね…。」
と私がつぶやくと、
「あの頃は今と違って、運ぶにはそうするしかないもんだからねえ」
という返事が返って来た。
その言葉に、非常にハッとさせられた。

70年近く前の、しかも田舎の話だ。
車なんてほとんど走っていない。
通信技術も発展しておらず、何かあった時に知らせようにも携帯電話なんて当然ない。
そんな環境の中で生きていたら、「必要な時に必要なものがなくても仕方ない」と思っているのが常だっただろう。
そのように生活していると、自分の周囲に対する寛容さが当たり前に身に付き、ある意味でおおらかな価値観が育って行くのではないか。
昔は良かった、昔に比べると今は窮屈だ、と言われる理由が、実は今までよく分からなかった。
価値観も多様になった今の方がずっと生きやすいのではないか?くらいに考えていた。
だが、周囲への寛容さという点においては、確かに不便な時代の方が気楽だったに違いない。

私は物心ついた頃には既に便利な世の中になっていた世代の人間で、しかも都心部で生まれ育っている。
今なんかはiPhoneとMacbook、iPadであらゆる調べ物や書き物、金銭の管理まで全て済ませているし、かさばるので本は基本Kindleで読んでいる。
現金を持ち歩くのが嫌いで、買い物や食事の会計はキャッシュレス決済するのが絶対に楽だと思っている。
だから、今更不便な環境に耐えられるとは到底思えないが、本来、この世界は不十分であり、その中で生きる自分もまた不十分であるのだということを忘れずにいたい。
生活に必要な何もかもが揃っているからこそ、「仕方ないね」と言える心の余裕を持っているのが現代的な豊かさと言えるのではないかと思う。

長々と文字を連ね、書きたいことを書き終えた。
今、「もし、老人の話が全くの嘘だったら…」と想像して震えている。
怖すぎる。話の内容的にも。