原始時代でも無理よ。【8月の振り返り】

SNSは記事の拡散力があるところが魅力ですが、書いたものを保管しておく場所としての機能はあまりありません。
Twitterに何か書いてもどんどん流れて行ってしまい、ツイートが読み返されることもなく、自分でも何を書いたか忘れてしまうのが少しもったいない気がしていたので、時々ここでログを残しがてら適当に過去を振り返って行くことにします。(noteの記事はそのままブログに転載してあります)

いずれの媒体でもしばらくはそこまでテーマを絞らず、とりあえず自分の興味のあること、考えたことを漠然と発信して行こうかなという感じです。
あと私はどちらかというと人当たりのいいタイプだと自分では思っているんですが、書き方のせいなのか理詰めで物を考えるからなのか、文章だとなんとなく堅く冷たい印象になってしまうので、そのうち音声も入れられる、動画の形でも何かやりたいな〜とか思っています。
以前トークイベントをした時、パワーポイントで作った変なスライドを画面に流しながらそれを淡々と解説して行ったり、変な文章を書いたプリントを真顔で配り、それを皆さんがざわつきながら笑ってくれたりするのがかなり楽しかったので、それを上手く表現できないかと仕事や勉強の合間に色々試しているところです。
あと、言葉だけでなく図示も大好きなので、どんどん変な図を示し、大勢の方を変な気持ちにさせたい。見ず知らずの大勢の方に、ざわつきながら笑って頂きたい。そんな願望もあります。
「パソコン作業は苦手なわけではないけどあんまり好きじゃない。めんどくさいから」という、『怠惰』としか言いようのない気持ちを、いよいよ乗り越えるべき時が来たのだと思います。


note.com

このnote、はじめは橋本環奈がパンダ舎に展示されている下りが書きたかっただけなんですが、最終的にえらい壮大な話になりました。


このプロフィールにしてから何故かセフレを探している美女(スパムアカウント)から毎日大量にフォローされるようになってしまいました。
「東京在住の女です」とか書いたからそっち系の出会いを探してるタイプのアカウントだと認識されてしまったのかな、ほぼウルトラマンの話しかしてないんだけどな、でもそう認識されるなら仕方ないよな…と思いながら変えてみたら、2日後くらいに落ち着きました。
理由が合ってたのかは分からんけど、よかったわ〜。


昔は猫が苦手でしたが、去年たまたま行った猫カフェで人懐こい猫に出会って懐かれて以来、徐々に猫との和解が進み、最近とうとう猫動画にハマり始めました。人間、変わるものです。

スコティッシュフォールドという種類のボテっとした猫がお気に入りです。

youtu.be

この子はその中でも群を抜いて可愛い。顔がアイドルのように可愛い上に甘えん坊な性格で賢くて、癒されます。
私は何かの世話をするのがそこまで得意ではなく、責任を持ってペットを飼う勇気が中々出ないので、お気に入りの猫の様子をチェックして動物と触れ合いたい気持ちを満たしています。
この猫さんの飼い主のやたら筋肉質の男性の方、可愛い猫の動画を毎日のようにアップしてくださって、ありがとうございます。


よく考えたら板が届く前日に漢方外来のある病院で漢方薬を3種類も処方してもらっていました。
完全に漢方の力を借りて体調を回復させていました。
板一枚で全ての問題が解決しているわけではありませんでした。
原始時代じゃないんだから、板一枚で全てをなんとかするのは無理よ。というか原始時代でも無理よ。


私は何かしらイレギュラーなことがあった時は何かの吉兆だと本気で思い込む、ちょっとおめでたいところがあるんですが、虫を見ると吉兆云々の前に怖くてパニックになってしまいます。
子供の頃はケースに入れたカブトムシを育てたり、カゴに入った大鈴虫を家の廊下に並べてリンリンリンリンうるさくしたり、ダンゴムシを捕まえて瓶にギュウギュウに詰めてみたり、アリの巣を深追いするために公園の土をひたすら掘り起こしたり、年がら年中そういった迷惑行為にふけっていたのに、大人になると急に被害者ぶって怖がり始めるとか、虫からしたらこんな身勝手な人間、絶対に許せないでしょうね…余計怖くなって来た…。

1000年後の娯楽

去年の年末、上野動物園でパンダを見た時の私のツイートです。
とても寒い日で、震えながら上野を歩いていた記憶があります。

この時に色々考えていたのですが、もし、動物園が「ものすごく可愛い希少な人間」として橋本環奈さんを展示していたら、大変なことです。

ーガラス張りの檻の中で過ごす橋本環奈を人々が囲み、スマホを手に写真を撮っている。
台の上でごろんと寝ている橋本環奈。寝静まったまま中々動かないので、動き出す時を今か今かと待ちわびる観客。
そして橋本環奈が可愛い表情をするたびに、周囲からはワーッと大きな歓声が上がる。ー

これはまずい。
なんというか、"闇"の臭いがします。
上野動物園とは違って国営施設ではないでしょう。
むしろ、決して国には見つからないような場所にあるに違いありません。
こんなことは明らかに橋本環奈さんの人権を無視した行為であり、現実には絶対にあり得ません。

本当でしょうか。
本当に、絶対あり得ないことなのでしょうか。
検討するために、時を遡りながら考えてみます。

・古代ローマに存在していたコロシアム。
そこでは奴隷同士の命をかけた決闘が行われていた。
その中で勝利を勝ち取り続ける奴隷は、人々から侮蔑の目で見られると同時に、スターとして羨望される特別な存在であった。

・平安時代の日本。
一般的にその頃の貴族たちは1日2食の生活を送っていた。
労働者階級においては運動量の多さから貴族より食事の回数が多く、現代と同じく1日3食だった。
貴族が早い時間から食事を摂っている肉体労働者の様子がおかしくて笑っているという表現が随筆の中に出て来る。(何に書いてあったかは失念)

・西部開拓時代。
新大陸からあらかた金が掘り返されてしまった後はタバコ、砂糖などの嗜好品や綿花の栽培が盛んになった。
砂糖の大量生産により、コーヒーや紅茶の消費は増大。
当時、機械式農業は存在していない。朝から晩まで機械のように働く奴隷が必要だった。
ここからアフリカの黒人奴隷市場が発展して行くようになる。
奴隷の労働に支えられ、イギリスでは一般民衆に至るまで優雅なティータイムを楽しむようになったのだ。

引きます。やっば。
少し前に生まれて初めて歴史にはまって色々調べていた時期があったのですが、なにせ学生時代は授業中は基本的に寝ていて、世界史のテストでロシアの政治家の名前を問われる問題に『なんとかコフ?』と回答してみたり、日本史のテストで日本の歴代首相名を問われて初代の『伊藤博文』以下を全て『原敬』と回答したりする(文字数が少なくて書くのが楽だから)ふざけた生徒だった私は歴史についてほぼ全く教養がなかったもので、ありとあらゆる歴史上の出来事にまっさらな気持ちで引いていました。
この記事で現在にも根深く残る差別などについて論じたい訳ではないので生々しい話や現代に近いところの例を挙げるのは避けましたが、とにかく人類の歴史を振り返ると差別と侵略の話がほとんどを占めているなと感じました。
大半、人権なんてあったもんじゃない。
それで、基本的にずっと揉めてる。

でも、生まれながらに既得権益を獲得している人間が自分の身を危険に晒す覚悟で他者に自らの恩恵を全て分け与えるなんて、出来るのでしょうか?
聖人としては正しい態度ですが、人間としては自然でないような気がします。
利他的になれるのは余裕があるからです。どんなに優しい人も、余裕が無くなれば人のことなんて考えられなくなります。
人間が生き物の一種であり、自分の生命や健康を維持するという本能がある以上、まず第一に我が身が可愛いのは当たり前です。
だからもし自分が身分制が廃止された今の日本に生まれずに、例えばはるか昔の時代に生まれていたら、そして被支配者階級ではなく支配者階級に生まれていたら、その事実をごく当たり前に受け入れ、奴隷の身分に生まれた人の立場や気持ちなんて考えもしなかったのかもしれないと思ったのです。
今、橋本環奈がパンダ舎に展示されていることについて、当たり前に引いているように。(※されてません)

テレビの見過ぎを注意されていた子供時代。
しかし、今となっては同世代以下ではテレビを持たぬ人が増えました。
私もその一人です。この間、趣味のテレビゲームをやるために古いテレビを実家から持って来ましたが、テレビ番組を観る習慣は中々付きません。 "当たり前"は意外なほどに素早く変化して行きます。
きっと今、私たちが信じ切っている価値観も、時や場所を変えれば簡単に変わってしまうようなものです。
歴史の色々を調べていたことをきっかけにこの記事も書いた訳ですが、知れば知るほど社会はどんどん移り変わりながらここまでやって来ているし、人間の本質はずっと変わらないんじゃないかと思えてきました。

今は社会の変革期だ、なんて言われたりします。でも、社会の大きな変化なんて、本当はいつだってすぐそこに迫っているんでしょう。
私はまだそんなに長く生きたわけでもないけれど、自分が生きて来た時代を振り返ってもそう思います。これからも、今までと同じように変わりゆく時代を眺めながら、本質的には特に変わらない自分、そして変わらないペースで年を取って行くことを楽しみにしています。

果たして未来の地球では、人類はなにを楽しんでいるのでしょうか。
多分、パンダではないと思うんですよね。

ー西暦3000年。最近は、誰の権利も侵害しない娯楽として『バーチャルリアリティーお花畑』が流行中。
「生態系を乱し、更に植物の権利を侵害する」という理由から、地球上での花の栽培は条約により固く禁じられているからだ。
VRお花畑では特殊な電波を通じ、手元のデバイスから脳内に直接映像が送信される。
目を閉じれば、風にそよぐ一面の花畑のイメージが頭の中に広がって行く。人々はそれを日々の心の慰めとしているのだ。
しかし、草花を娯楽として消費するという行為は大変残酷であり、人々の精神に有害な影響を与え得るとして、多くの植物保護団体からは強い反対意見が出ている。ー

…かもしれない、とか思っています。

株の効用

趣味で株の売買をしています。
商売人の家の子供として生まれ、物事を考える基軸のひとつに「経済」が含まれていることが小さい頃から自然なことでした。
親としてはあまり子供にカネカネ言いたくなかったらしく、その辺りの話は避けられていましたが、そんな親の気持ちをよそに高校生の頃には祖母の部屋にこっそり侵入しては経済や経営の本を盗み読みしていた記憶があります。
そのうちに、企業の成り立ちについて興味を持ち、自然の成り行きとして株取引にも興味を持つようになりました。
ちょうど株券電子化が進み、ネット上での株取引が気軽でメジャーなものになったことにも背中を押される形で、大人になって自分の自由なお金が増えた頃に証券会社に口座を作り、初めは怯えながらも少しずつ取引を開始し、取引金額を増やしながら現在に至っています。

儲かってまっか?と聞かれると、そこまでです。利益も出ますが、損失もたくさん出ます。
相場なんてそう読めるものではありません。
例えばコロナウイルスの流行であらゆる地域が閉鎖され、国から国への人の行き来もなくなり、世界経済が停滞。それによりこれからリーマンショックや世界恐慌以来の経済的危機の可能性を抱えることになろうなんて、一体誰が予測出来たでしょうか?
日本株に関しては、繰り返される金融緩和の影響、そして宿泊業観光業などを中心としたオリンピック特需に対する期待などにより株価のゆるやかな上昇が続いていましたが、ウイルスの流行によりオリンピックは延期。相場は人々の不安を映し出すように大暴落した後、混乱を続けています。
これは誰にも予測の出来ないことだったと思います。
私はコロナの影響で株価の下落が始まった直後に危機を感じ、短期保有の商品は売却し、それ以降はとりあえず売買は控えて様子を見ていましたが、正直少しダメージを受けました。

しかし、それでも株に興味を持つこと、そして実際に売買をしてみたり経済ニュースをチェックするのはやはり素晴らしいことだな〜と改めて思ったところでもあるので、今回はそのことについて書きたいと思います。

1.株を買うと、世の中に興味が持てる
デモトレードアプリなんかもありますが、デモトレードではなく実際に証券会社で口座を開設し、少額から実際に投資してみるのが良いと思います。何故なら人間、自分のお金が関わっているとなると俄然興味が湧いて来るものだからです。
どの銘柄に投資をするか考えてみると、自分がどの業界によく関わっていてどの業界の商品を買っているか、なんとなく気がついてきます。そこからその会社について、その業種について、色々調べて行くと、世の中には本当に色々な会社があることに気がつきます。
人が一人では生きられないのと同じように、会社も単体では存在し得ません。会社は単に顧客のニーズに応えて利益を得ているだけではなく、その運営を維持するためにも他の多くの会社の商品やサービスが関わっています。
例えば、今、近所のカフェでアイスコーヒーを飲んでいます。提供してくれたのはカフェですが、コーヒー豆は大体南米やアフリカ辺りから輸入されてここまでやってきているでしょうし、このアイスコーヒーに刺さっている紙ストローを作る仕事も、コップを作る仕事も、それを運ぶ仕事もあるはずです。
じゃあ、それらの仕事はこの先、どうなるんだろうか。世の中から多く必要とされる仕事で、かつ、今はまだそこまで注目されていないような会社があったら「買い」でしょう。

2. 新しい物の見方を覚えて、生活が楽しくなる
実際に商品を買ったら、値動きはやはり気になりますし、業績やその会社の新しいサービスなどもチェックするようになります。他の商品のことも気になってきます。
株について調べたり学ぶために、例えば会社四季報(上場企業のデータが載っている辞書のような本)やネットの情報サイト、その他、株や投資についての書籍を読んでデータを分析する力を付けたりするのももちろん大切ですが、ブラブラと街を歩いたり、なんとなくネットサーフィンをすることもとても勉強になります。
そこでふっと気になるような物や情報、よく見かける言葉なんかが見つかったら、それに関連しているのは一体どういう会社なのか調べてみるのです。
例えば、先ほどのアイスコーヒーには紙ストローが刺さっていました。ここで、最近はマイクロプラスチック削減のため、ストローやショッピングバッグが紙に変わった店が増えていることを思い出します。
ストローを作っている会社って考えたことがなかったけれど、そりゃ絶対にどこかにはあるよな。紙の材料はパルプ。紙ストローは増えたけどペーパーレス化が進んでいるし、石油製品の代替品として紙のニーズが増えたとしても、総合的に見たらこれから消費量は減るんじゃないだろうか…。
段々、こんな感じの物の見方をするようになってきます。生活がちょっと楽しくなります。

3.お金の使い方を考えるきっかけになる
経済ニュースをチェックしたり株価のチャートを眺めていると、経済というのはすぐにあっちに振れたりこっちに振れたり、実質人の心の動きなんじゃないかと思えてくることがあります。
現代経済学では自分自身の利益が最大化するように動く、抽象化した人間モデル(合理的経済人)を基準に物を考えることが多いそうですが、確かに抽象化したら人間って無意識に同じような動きをするもんだよなと思うんです。
しかし、そういった人間としての自然な心の動きに加え、経済に対して一歩引いた客観的な目線を持つと、何も知らなかった頃とはまた違った価値観が育って来ます。
色々な企業や仕事について調べているとひとつの企業や経済全体に対して期待するようになりますし、自分が働いて稼いだお金が一体どこに流れて行くのかについて、多少シビアになります。
物やサービスを選ぶのも、ある意味では投資行為です。このお金がどこかの企業の売り上げになり、それがまた誰かに渡って行きます。例え仕事をしていなくても、必要とする物やサービスがある以上、経済に参加していると言える訳です。
では、どういう所にお金を投じたいか。逆に、投じられたいか。
株をきっかけに色々なことを勉強して行く内に、そんなことをよく考えるようになりました。

4.注意点
冒頭で書いた通り、相場はそうそう読めるものではありませんし、取引をする中で本当にたくさん失敗をして損失も出ます。そういうものだと理解していても、自分のお金が刻一刻と増えたり減ったりするのを見ているのは中々心臓に悪いものがあります。
だから私は慣れて来て色々なことが分析できるようになったとしても、利益を出せたとしても「自分はバフェット(天才投資家の名前)ではない」と常に心に留め、株式市場とはほどほどの距離感で付き合うようにしています。
ですので、もしこれから株を始める方がいらっしゃったら、失っても痛みのない金額から始めるようにして下さい。信用取引をしない限り、投資した金額以上の損失が出ることはありません。
プロの投資家やよほどの才能がある人でもない限り、投資は大切な自分の人生とお金をより楽しく豊かにするためのものであって、人生とお金を賭けるものではないと思っておくべきでしょう。

他にも、データを読み解く楽しさがあるとか株主優待が送られて来ると嬉しいとか色々思っているところがありますが…。盛り上がって長々と書き過ぎたのでとりあえず以上です。
モノの販売も購入も労働も投資も全て経済活動であり、よって、私たちは誰もが経済の主体です。
ならば、せっかくなので、主体としての自覚を持って、自分がなにを好み、なにを望み、なにに期待するのか、よく考え、楽しく経済活動を送りたいものです。
株式投資に触れるのはそのためにとても有用であると私は思っています。

"昔は良かった"の謎

先日、乗っていた電車で人身事故が起こり、1時間近く車内に閉じ込められてしまった。
地下鉄だったので、途中で車両の電源が落とされた時にはあたりが真っ暗になった。
サイレンが鳴り響き、顔を引きつらせた駅員が走り回るホームを暗い車内から茫然と眺めることになった。
初めてのことで、とても恐ろしかった。
1時間も閉じ込められたことによりその後の予定が狂ってしまったという憤慨もある。

というような話を80代の方にしたところ、「あれは迷惑だよねえ」と言った後、とんでもない話をし始めた。
「僕も中学生の時に地元の鉄道に乗っていて、その電車が人を轢いちゃったことがあってね。
電車が急に止まって、しばらくしたら運転手が轢かれた人をポーンと電車に放り込んで、それから走り出したの。」
えー!!!!!!!!!!!
今、文字で書いたのと全く同じ反応を実際にした。
信じられない。その人は生きていたのか死んでいたのか聞いてみたら
「いや、死んでるよ。真っ二つ」
とのことで、二回目のえー!!!!!!!!!!!が出た。
今度はちょっとのけぞった。老人、大笑いである。
たった今電車に轢かれて真っ二つになった人間を、乗客と一緒に乗せて走り出す電車。
現代ではあり得ない話だ。
「いや、すごいな…。おおらかな時代…ということなんでしょうかね…。」
と私がつぶやくと、
「あの頃は今と違って、運ぶにはそうするしかないもんだからねえ」
という返事が返って来た。
その言葉に、非常にハッとさせられた。

70年近く前の、しかも田舎の話だ。
車なんてほとんど走っていない。
通信技術も発展しておらず、何かあった時に知らせようにも携帯電話なんて当然ない。
そんな環境の中で生きていたら、「必要な時に必要なものがなくても仕方ない」と思っているのが常だっただろう。
そのように生活していると、自分の周囲に対する寛容さが当たり前に身に付き、ある意味でおおらかな価値観が育って行くのではないか。
昔は良かった、昔に比べると今は窮屈だ、と言われる理由が、実は今までよく分からなかった。
価値観も多様になった今の方がずっと生きやすいのではないか?くらいに考えていた。
だが、周囲への寛容さという点においては、確かに不便な時代の方が気楽だったに違いない。

私は物心ついた頃には既に便利な世の中になっていた世代の人間で、しかも都心部で生まれ育っている。
今なんかはiPhoneとMacbook、iPadであらゆる調べ物や書き物、金銭の管理まで全て済ませているし、かさばるので本は基本Kindleで読んでいる。
現金を持ち歩くのが嫌いで、買い物や食事の会計はキャッシュレス決済するのが絶対に楽だと思っている。
だから、今更不便な環境に耐えられるとは到底思えないが、本来、この世界は不十分であり、その中で生きる自分もまた不十分であるのだということを忘れずにいたい。
生活に必要な何もかもが揃っているからこそ、「仕方ないね」と言える心の余裕を持っているのが現代的な豊かさと言えるのではないかと思う。

長々と文字を連ね、書きたいことを書き終えた。
今、「もし、老人の話が全くの嘘だったら…」と想像して震えている。
怖すぎる。話の内容的にも。

筋肉は裏切らないが、筋肉以外は裏切る

健康診断で乗った体組成計に"隠れ肥満"と告げられたので、しばらく前にスポーツジムに通い始めた。
最初はウエイトトレーニングマシンの見た目に怯え、ただランニングマシンの上を走ったりプールで泳いだりしているだけだったものの、それでは身体は中々変わらないということで勇気を出してマシントレーニングに挑戦するようになり、しばらくするとパーソナルトレーナーに教えを乞うようになり、今、超真面目に筋トレを継続している状況である。
まさか、こんなに真面目に運動する日が来るとは思わなかった。
「校庭の砂が太ももに当たるのが嫌だから私はその日学校を休む」という、お姫様にしか許されぬ言い分で高校の体育祭を3年間全部サボった私が。

さて、生まれて初めてトレーニングを続けていて驚いたのが、少しずつでもきちんと積み重ねれば力も付くし、ボディラインもそれなりに変わって来るということだ。
近頃、フィットネスの流行に伴って、「筋肉は裏切らない」という言葉を度々目にするようになった。
この間までは一体それがどういう意味なのか全くわからず、ただの面白ワードとして認識していたのだが、自分でやってみて納得した。
確かに、筋肉は裏切らない。
この場合の裏切らないとは、「努力がほぼ必ず実を結ぶ」ということだ。

努力の素晴らしさ、美しさが語られることが度々あるが、実際、人生において、努力が望む結果に直結することはそうそうない。
努力したからと言って、好きな人に振り向いてもらえるとは限らない。
努力したからと言って、仕事で素晴らしい成果が挙げられるとは限らない。
努力したからと言って、絶世の美男美女になれるものではない。

それを受け入れられなくなった時、人は心を病む。
ことに現代は、あたかも全ての人間が主人公になれるかのような情報が多く出回り、人生とはそのようであるべきだと思わされやすい。
しかし、全ての人間にスポットライトが当たり、全ての人間が典型的な成功者になれるわけではない。
我々、多くの者は凡人だ。
また、一度何かに成功したとしても、それが継続するとも限らない。
人間には生まれついての能力の差、環境の差があり、さらにその時々の運の良し悪しにも差がある。
やたら壮大な世界や夢のような世界を見せられ続けると、その時の自分に合った自分なりの幸せを獲得しようという素朴な気持ちを保つのは中々難しい。
しかし、食事に気をつけ、正しくトレーニングをすれば、必ず身体は変わってくる。
適切で地道な努力により自分の人生も少しずつ変えられるのだ、と信じられる気持ちになって来る。
だからこそ、今の時代は筋トレを必要としているのかもしれない。

ところで、ボディービルの世界においてのトレーニングは一般人がたまに取り組む筋トレとは違い、とにかく大変厳しい世界らしい。
食事もトレーニングの一環で、味を楽しむというよりは筋肉のための栄養摂取であると捉える人が大半とのこと。
そういった特殊な方々についてはこの話からは除外するべきであろうな、と思い、ボディービル大会のチャンピオンの方々のインタビューを調べて読んでみたら、その中の一人が筋トレについて「努力が必ず形になって返ってくるところが良い」とおっしゃっていた。
その二の腕の筋肉は安静時にもかかわらず、太い血管と共に逞しく隆起していた。
「努力量やば…」と思った。